4 水のひみつ(後編)
水に尽きる、君津の個性。
珍しい3つの水利※1
弥生時代から明治時代まで、日本の水の需要は水田の潅漑用(かんがいよう)が中心でした。近代化で生活用水や工業用水が増えた後も、1955年頃(昭和30年頃)まで、市域では依然として潅漑用が中心だったといえます。 しかし、河川は通常、耕地よりも低いため、水を汲み上げて利用することが難しく、溜池(ためいけ)・堰(せき)・用水路などの整備が必要でした。
ここで、地質の特性に着目して、全国的にも独特な新田開発や用水整備を行ったのが市域の特徴です。その「川廻し(かわまわし)」「二五穴(にごぅあな)」「上総掘り(かずさぼり)」は、景観のうえでもユニークであり、少なからず現役で使われているという耐久性も注目される点です。100年以上も維持されてきた3つの公共インフラは、水と地質環境の特徴を捉えて共生してきた市域の水文化を、よく示しています。
川廻し(かわまわし)※2
近年脚光を浴びている「川廻し」は、川のくびれた部分を切り割りかトンネルで短絡させて、川の流路を替える新田開発工事です。房総丘陵と新潟県に集中して見られ、房総では古川を整備して水田にします。川との高低差は少なく、用水は川の上流や、流れ込む沢から引くことができます。房総の川廻しによる開田は17世紀から昭和初期まで続きました。
川廻しトンネル(清水渓流公園/濃溝の滝・亀岩の洞窟) きみつフォトバンク
大録の川廻し 「国土地理院 電子国土Web」を加工
水色が現在の小櫃川の流路。黄色が旧河道で現在は水田の部分。
二五穴(にごぅあな)※3
二五穴は、用水路の幹線部分を幅二尺、高さ五尺の トンネルで構成する用水路です。トンネル部分は断続的に続き、長いものは10キロメートルに及びます。平山(ひらやま)用水はその初期の例で(1833年着工)※4、昭和期まで新たな二五穴の用水が作られました※5。トンネル主体の用水路の形態には、三重県のマンボなどがあるものの全国的に珍しく、小櫃川上流域など房総丘陵に集中する二五穴は、その数や長さで特筆される用水です※6。
二五穴の内部(滝向用水)
※二五穴の多くは現在も使用されており、通常、関係者以外が内部に立ち入ることはできません。
上総掘り(かずさぼり)※7
上総掘りは、明治中期に市域で成立した深井戸掘削の技術です。市域では地下水が自噴するため、戦後の食料増産期(1960年頃)まで、潅漑用を中心に盛んに上総掘りで井戸が掘られました。市域に豊かな水の歴史をもたらし、近代の様々な産業に活用され、アジア・アフリカに水を届けた上総掘りは、君津の文化の象徴といえます。
上総掘りについては、当館のサイト「積み重ねた職人の工夫 -上総掘り-」や、君津市発行『なるほど水と上総掘り』もご参照ください。
水田の上総掘り(君津市浦田)
地下水と農業
市域では、戦前から農会の指導や個人の工夫によって、花卉(かき)栽培・温室栽培などを始めており、戦後は農協によって園芸作物などが試されました※8。また千葉県は、減反(げんたん)政策下で稲作集団転作モデル設置事業を実施し(1971年以降)、市域でもこれに応じて、地域ごとにインゲン、レタス、いちご、カラーなどを栽培しています※9。こうした流れが現在の産地形成にもつながりました。
市外より有利だった条件に自噴井(じふんせい)の存在が挙げられます。設置や管理に費用をかける場合もありますが、水自体は無料で常時供給されます。転作作物に限らず、現在も稲作に利用されている井戸もありますし、近年の野菜の水耕栽培も、地下水を利用した特徴的な産業となっています。
注釈
※1 「房総丘陵を水源とする河川流域の地域特性と地形誌」『千葉県立中央博物館自然誌研究報告特別号 第10号』2017 八木令子・吉村光敏・小田島高之 ほか
※2 川廻し全般については『自然編』432ページ
※3 二五穴全般については『自然編』418ページ
※4 『平山用水開墾絵馬』1836 大原神社蔵、『君津市史金石文編』1997君津市市史編さん委員会編717ページ
※5 高宕用水(1941年起工1950年完成)など
※6 「二五穴からみた身の丈にあった技術」歴博映像フォーラム13レジュメ 2019西谷大著
※7 『上総掘りの民俗』1986大島曉雄著、『なるほど水と上総掘り』2020 君津市編
※8 『清和村誌』1976清和村誌編纂委員会編374ページ、小櫃村誌1978 小櫃村誌編纂委員会編804ページ、『史料編6』144ページ
※9 『通史』1114ページ、『自然編』448ページ
※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り。『通史』(『君津市史通史』2001)、『自然編』(『君津市史自然編』1996)、『史料集6』(『君津市史史料集6』1995)以上君津市市史編さん委員会編