3 産業のひみつ(前編)
君津だから、独特の産業。
米づくりの歴史が古い
南関東で水田稲作が確認されるのは弥生時代中期のことで、その一例として知られるのが常代(とこしろ)遺跡です※1。常代遺跡では、稲作用の木製農具が大量に見つかっていて、県の文化財に指定されています。
また、小櫃川水系の御腹川(おはらがわ)に設けられた大上堰(おおがみぜき)は、江戸時代以前(伝承では白鳳年間/7世紀)※2から改修を重ねて、1970年頃(昭和45年頃)まで使用され、潅漑(かんがい)域は久留里大谷から俵田、西原に及びました。
川の中流域に拡がる米の産地は、その歴史も古いのです。
山が生みだすブランド商品
森林面積が3分の2を占める市域は、江戸などの大消費地にも近く、古くから建材や燃料の供給地でした。
室町時代には焼失した鎌倉円覚寺復興の材木を亀山郷(かめやまごう)から出しています※3。
薪炭(しんたん)の生産も盛んで、久留里周辺の炭は、江戸期の百科事典※4に良質な炭として掲載され、その後も常盤半兵衛(ときわはんべえ/土窯半兵衛とも)の改良で、生産が増加したとされています※5。江戸城では文化年間から小糸川流域の炭を、1838年(天保9年)からは本丸と西丸で亀山地区の炭を御用炭として使っていました※6。
同じく亀山・松丘では、江戸末期から昭和に作られた穀物の選別器具「上総唐箕(かずさとうみ)」が、豊富な木材と製造の工夫で大量生産されて販路を広げ、東北にまで販売されました※7。
全国で活躍した井戸掘り職人※8
明治中期、現君津市域の中村や小櫃村の職人が中心となって成立した上総掘りは、少人数で、動力を使わず、身近な材料で、数百メートルを掘削することができました。もともと水田の潅漑用に生まれた技術ですが、すぐに全国に拡がり、近代化を進める様々な産業に活用されています(石油、天然ガス、探鉱(たんこう)、温泉開発など)。君津市域や周辺地域の職人たちは全国に出向き、あるいは招かれて、その技術を発揮しました。
Francis James Norman著 ※写真は第2版増刷版より(1916年発行)
※上総掘りについては、当館のサイト「積み重ねた職人の工夫 -上総掘り-」、君津市発行の『なるほど水と上総掘り』改訂版も、ご参照ください。
観光は人気投票一位の鹿野山(かのうざん)※9
鹿野山は県下第2位の高さ(白鳥峰/379メートル)で、古来より霊山として知られています。
江戸後期に遊山(ゆさん)を兼ねた寺社参詣が流行すると、房総の玄関口である木更津から近い鹿野山も賑わいを見せ、『日本名山図会(ずえ)』(1804年)にも紹介されました。
近代には大町桂月(おおまちけいげつ)、島崎藤村、志賀直哉、高浜虚子(たかはまきょし)などの文人が作品を残しています。
西側から東京湾越しに富士山を望む景観は、歌川広重(うたがわひろしげ)の「冨士三十六景 上總鹿楚山(かずさかのうざん)」などの作品に、東側の九十九谷は、日本画家東山魁夷(ひがしやまかいい)の「残照(ざんしょう)」のモデルとして知られる絶景です。
避暑地として外国人も訪れ、洋風のホテル「呦々館(ゆうゆうかん)」も建っていました。1929年に東京で行われた「日帰勝地投票」では第一位となり、「関東第一山」の記念碑が建てられています。
「冨士三十六景上總鹿楚山」 (かずさかのうざん) 国立国会図書館 蔵<外部リンク>(国立国会図書館へリンク)
歌川広重 1859年
鹿野山鳥居崎から見た、江戸湾越しの富士山
注釈
※1 『千葉県の歴史 資料編考古2』2003千葉県史料研究財団編、 『常代遺跡群』1996君津郡市文化財センター編
※2 『小櫃村誌』1978 小櫃村誌編纂委員会編669ページ、707ページ
※3 『史料集1』61ページ、『通史』193ページ
※4 『本朝食鑑』1697人見必大著、『和漢三才図会』1712 寺島良安著
※5 『清和村誌』1976清和村誌編纂委員会編 401ページ
※6 「炭焼御記録」1838-1867東京大学総合図書館蔵、 「川越藩の江戸城御用炭納入システム」武部愛子『山里の社会史』2010後藤雅知・吉田伸之編
※7 『上総掘りの民俗』1986大島曉雄著 242ページ・244ページなど
※8 『地下のめぐみと上総掘り3 上総掘り関係文献集成』2010上総掘りを記録する会、『上総掘りの民俗』1968 大島曉雄著
※9 平成11年度企画展「かのふ山紀行」1999 君津市立久留里城址資料館編
※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り。『通史』(『君津市史通史』2001)、『史料集1』(『君津市史史料集1』1991)、以上君津市市史編さん委員会編