4 水のひみつ(前編)
水に尽きる、君津の個性。
九十九谷の雲海 きみつフォトバンク
どこに降る?千葉の雨
市域南東部の房総丘陵は雨が多く、 札郷(ふだごう)※1では、平均年降水量が2521ミリ(2010−2019年の平均※2)と、房総半島における最多雨(たう)地域です。
この雨が川の水源であり、地下水の供給源にもなります。また、鹿野山の雲海やダム湖の景観も、豊かな農業・工業用水も、この雨と関係します。
千葉の主要河川
県内の川の流路延長を見ると、第1位が小櫃川(おびつがわ) の77.0キロメートル、第3位が小糸川(こいとがわ)の65.3キロメートルです※3。小櫃川は清澄山系、小糸川は高宕山系を分水界として、支流を集めて北西に流れます。房総半島の誕生以来、洪水による侵食・運搬・堆積で流路や地形を変え、中・下流域の沖積地には肥沃な水田が広がります。
「千葉県の気象特性」銚子地方気象台ホームページ<外部リンク> 統計期間1981−2010
地下水と絞(しぼ)れ水※4
市域の地下には、東京湾を底とする地下水盆(ちかすいぼん)があります。砂礫(されき)層と砂岩(さがん)や泥岩(でいがん)の層が交互に積み重なり、東京湾に向かって傾斜して、砂礫層には雨水が供給されます。市域はこの日本最大の地下水盆※5から圧力を受けた水が、豊かに自噴する恵まれた地域です。
また、地上でもこの互層に沿って崖から染み出す「絞れ水/絞り水」が古くからの水源で、山城(やまじろ)の久留里城でも、この水を溜めた井戸が使われました。
災害も生む水
豊かな雨や川は災害とも関係します。江戸時代には豪雨により、河道や村域を改変する被害がありました※6。
市域で記録上最も被害者の多かった災害は1910年(明治43年)「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」で、少なくとも27人の犠牲者を出しましたが、その多くは土砂による被害でした※7。
関東大震災では、川の下流域の沖積層(ちゅうせきそう)や旧河道(きゅうかどう)で地震の揺れが大きく※8、人見(ひとみ)、鎌滝(かまだき)、俵田(たわらだ)など、海岸や川沿いでは液状化の状況がみられました※9。また、前日に降った雨で人見山が崩れて小糸川をせき止めています。
※周西村の被害や小糸川をせき止めた土砂崩れの様子を伝えるページ 国立国会図書館へ(77コマ目参照)<外部リンク>※10
小糸川の氾濫 1970年 (釜神から中野方面) ※11
舟の下る川※12
鉄道や自動車での運搬が始まる前、市域の内陸部の農林産物の輸送には川が利用されました。
材木を筏で流した起源は分かりませんが、舟は、小糸川で1629年(寛永6年)頃には運行していたことが確認できます※13。発着場である「河岸(かし)」は、小糸川に23か所、小櫃川(市域部分)には14か所確認されています。積み荷は薪炭などの燃料や米で、川舟で河口まで運び、そこから五大力船(ごだいりきせん)で江戸などへ運びました。市域は大消費地に川と海でつながった、物資の供給地だったのです。
小櫃川の川舟は久留里線の開通とともに数を減らし、1923年(大正12年)の関東大震災で終焉(しゅうえん)を迎えます。小糸川では1930年か31年(昭和5・6年)まで運行されたようです。
清水河岸の川舟と積み荷 『君津市史民俗編』より
注釈
※1 黄和田畑(きわだはた)の小字。東京大学千葉演習林の観測地
※2 2018年に欠測があり、その年を除いた9年間の平年値とした。
※3 「県内の一級河川・二級河川」<外部リンク>千葉県ホームページによる数値 2021年8月確認。千葉県発行のリーフレット「ちばの川と海」<外部リンク>からも確認できる。
※4 市域の地下水全般については『自然編』424ページ
※5 『日本の地下水』1986農業用地下水研究グループ編
※6 『通史』405ページ
※7 「水害紀念帖」1910青蓮寺蔵 この災害では郡内で70名の死者が出て、62名分は名前の記録があり、周西村15人・貞元村9人、周南村3人が死亡と分かる。ほかに中村・八重原村・久留里村にも被害があったと記されている。この水害の件は『史料集3』689ページにも記載あり。
※8 『自然編』98ページ
※9 「天災ときみつ-『未曾有』の災害をふり返る-」2013君津市立久留里城址資料館編
※10 『千葉縣上総下総地震調査報文』<外部リンク>(国立国会図書館ホームページ)77コマ目 1925地質調査所編。6万立方メートル以上が崩落して小糸川を埋め、2日から18日まで土塊の取捨を行った。
※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り。 『通史』(『君津市史通史』2001)、『自然編』(『君津市史自然編』1996)、『史料集3』(『君津市史史料集3』1993)、以上君津市市史編さん委員会編