3 産業のひみつ(後編)
君津だから、独特の産業。
人見に始まる千葉の海苔※1
江戸湾の海苔(のり)は、品川・大森の生産者と、関係する問屋によって独占的に生産販売されていましたが、需要の高まりで新たな海苔養殖場の開発を目指したのが、浅草の近江屋甚兵衛(おうみやじんべえ)(1766-1844)でした。甚兵衛は海苔養殖への参入を説得して浦安から内房を南下しますが受け入れられず、1821年(文政4年)※2に小糸川河口の人見で提案が通り、1823年から本格的な海苔養殖が始まります※3。
その後、海苔養殖は富津から浦安まで普及し、湾岸の代表的な産業となりました。1940年(昭和15年)に千葉県の海苔生産量は全国一位となり※4、高度経済成長期には、技術・収入面とも成果を上げていましたが、県の進める京葉工業地帯造成事業と競合することになります。
君津町漁業協同組合では、県から漁場を譲るよう求められ、調査や協議を重ねてこれに応じ(1961年)、坂田漁業協同組合も協定に応じます(1965年)。漁業を生業としてきた地域の歴史的な変化で、補償や転職の結果も様々でした。漁協の解散記念碑や近江屋甚兵衛の顕彰碑を見ると、漁業や海苔養殖に寄せた地域の思いがうかがえます。
鉄鋼業の拠点 君津
日本製鉄(にっぽんせいてつ)は、製鉄事業を中心とした日本最大手の鉄鋼メーカーです。その中核製鉄所が東日本(ひがしにっぽん)製鉄所君津地区で、1968年(昭和43年)の第一高炉火入れとともに、銑鋼(せんこう)一貫生産体制を確立し、日本最大の消費地である首都圏の鉄鋼生産拠点となっています。
なぜ君津に来たの?
1955年(昭和30年)以降、経済成長に伴って鋼材不足は深刻になり、鉄鋼各社は新たな製鉄所の建設を検討しました。1959年(昭和34年)の秋頃、千葉県の誘致の申し入れによって※5、八幡製鐵(やわたせいてつ/現日本製鉄)の君津進出が決定し、1965年(昭和40年)2月に君津製鐵所が発足します。
君津を選んだ理由として「関東地方の需要(消費地に近い)」「開発計画に対応して京葉地帯の発展に寄与する」「湾港の利用と輸送の効率化」が挙げられ※6、「工業用水があること」も、進出の前提とされていました※7。こうした立地上の利点は、過去の別の産業にも共通点があります。そして八幡製鐵の進出によって、人口増加や都市化など、地域にも大きな変化がありました。
生産の推移
鉄は様々な製品の基礎素材で、特に日本の高度経済成長とともに生産量を伸ばしました。1970年(昭和45年)に八幡製鐵が富士製鐵と合併して新日本製鐵(しんにっぽんせいてつ)が誕生すると、当時の世界一の鉄鋼メーカーとなります。1980年(昭和55年)には、日本の粗鋼(そこう)生産量が世界一位となりますが、オイルショック以降、特に昭和の終わり以降は、日本の生産量は伸びていません。
2021年の粗鋼生産量は、中国が世界全体の6割を占めており、次いでインド、日本となっています。こうした中、日本製鉄は、強さ・軽さ・加工しやすさなど、高品質で高機能な鉄を作る技術や、グローバル対応力などの総合力で世界をリードしています※8。
注釈
※1 海苔養殖全般については『通史』495ページ・686ページ・752ページ・810ページ・892ページ・1006ページ・1035ページ、『史料集6』 279ページ
※2 「差上申御請書面之事」1826 『史料集2』306ページ。 「一六ヶ年前巳秋中」に甚兵衛が人見村へ来て、海苔養殖を勧めた旨が記される。
※3 「上総海苔起立一件書留」1839 近江屋甚兵衛 『史料集2』308ページ
※4 パンフレット『江戸前ちば海苔』千葉県漁業協同組合。なお、2018年は10位「平成30年漁業・養殖業生産統計年報」
※5 『日々新たに 総合史 新日本製鐵株式会社君津製鐵所20年史』1985所史編さん委員会編
※6 「君津製鐵所の現状」1975新日本製鐵株式会社君津製鐵所編、『史料集5』501ページに抄録。
※7 「八幡製鉄(ママ)本社と会談の概要」に武田計画部長の発言として示される。「埋め立て対策委員会資料調査中間報告書」1961『君津町漁業協同組合史料集』534ページ
※8 日本製鉄ホームページ
※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り。『史料集2』(『君津市史史料集2』1992)、『史料集5』(『君津市史史料集5』1993)、『史料集6』(『君津市史史料集6』1995)、以上君津市市史編さん委員会編