2 合併のひみつ(後編)
税金を地元へ留めるには
八幡製鐵君津製鐵所工場群 1969年 故渡辺忠純氏提供 『周西地域誌』
1969年(昭和44年)から、君津町は更なる合併を検討していました※1。その主要な理由が固定資産税です。1960年代に進出した八幡製鐵(やわたせいてつ/現日本製鉄)や関連会社が設置した、大型の設備(大規模償却資産)にかかる固定資産税は、1971年からの5年間で162億円の収入が見込まれていました。
この税は基本的に市町村の税収になりますが、人口が少ない場合、県の収入になる部分が出てきます。合併前の君津町の場合、この仕組みによって税収が減って46億円に留まる見込みであり※2、税収を減らさないためには、合併して人口を増やす方法がありました。
1970年(昭和45年)3月、君津郡市広域市町村圏事務組合の協議会で、君津郡域全体での合併が提案されました。税収の地元還元による財政力強化をはかり、自治体の基盤整備をすることを合併の目的に述べています。当時、全国的に広域的なインフラの整備が進められ、その予算の捻出は重要な課題だったのです。
このとき議員任期の都合で、君津町から合併期限を9月末にする条件が付けられていました。この期限に意見が二分し、合併協議は木更津市、君津町、小糸町、清和村、小櫃村、上総町の6市町村で進められます。しかしこのあと協議は難航し、重なるように大災害が発生するのです。
合併・災害と、整備の同時進行
合併協議破綻‣合併‣市制施行‣まちづくり
木更津市を含めた合併協議では、市名と庁舎の位置で難航する調整の中で、新市名「君津木更津市」が6月22日に提案されます(回答期限:7月5日頃)。君津町は7月8日に市名を承諾で回答。木更津市の合意は得られず、協議会は7月16日に解散しました。
その後、木更津市以外の自治体で直ちに合併協議会設立総会を開催し(7月28日)、8月11日に合併を議決、13日に申請し、9月28日に、現在の市域の新君津町が誕生しました。この間、9月には5町村による新町5か年計画をまとめています。
その後、法定人口が基準に達し、中心市街地の戸数割合や都市的業態の従事者数など、都市としての要件も整い※3、翌1971年(昭和46年)9月1日、県下25番目の市として、君津市が誕生します。人口や産業の急激な変化の中で、都市計画や総合計画の策定・整備が急ピッチで進められました。
君津市基本構想のイメージ 「広報きみつ」昭和50年8月1日号
豪雨災害「45災」‣復旧・復興
7月1日、千葉県で戦後最悪の被害とされた豪雨災害が発生します※4。現在の君津・市原・大多喜方面に甚大な被害があり、「45災(よんごさい・よんじゅうごさい)」などと呼ばれました。
坂畑(さかはた)や鹿野山(かのうざん)では1時間の雨量が100ミリを超え、黄和田畑(きわだはた)の札郷(ふだごう)で総雨量437ミリを観測しました。市域の死者は4名。君津町・小櫃村・上総町の記録では※5、床上浸水の合計が392戸、河川決壊22か所、橋梁は43か所が流失しています。上総町では19の集落が孤立し、7月3日の晩に解消しました。
各町村は、被害の把握、避難所運営、被災住宅の消毒手配などに奔走します。君津町・上総町・小櫃村には災害救助法が適用されました。道路・河川の復旧などが、他の自治体から職員の応援を得て行われましたが、特に小櫃川の被害は甚大で、災害復旧助成金としては戦後2番目の規模となる43億円(総事業費は90億円)を受けて復旧されました※6。
集中豪雨の水害(釜神/かまがみ) 1970年(昭和45年)7月1日 君津市提供
注釈
※1 1970年の合併経緯については『通史』1079ページ
※2 「広報きみつ号外」1970 8月15日号
※3 『通史』1084ページ、『史料集5』65ページ、また同資料には、中心市街地の家並み比率「連たん戸数」が極端に不足し、自治省は市への昇格を無理としたが、関係者が将来的な見込みを訴えて認可されたとある。
※4 7月1日豪雨全般については『昭和45年7月1日関東地方南部の大雨による千葉県水害報告書』1971千葉県編、『被災から半世紀 45災を振り返って』2020ちば河川交流会編、「天災ときみつ-『未曾有』の災害をふり返る-」2013君津市立久留里城址資料館編
※5 『通史』1110ページ
※6 「防災」第263号1971全国防災協会編
※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り。『通史』(『君津市史通史』2001)、『史料集5』(『君津市史史料集5』1993)、以上君津市市史編さん委員会編