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1 名前のひみつ(後編)

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年1月8日更新

町村名の由来を知っていますか?

最初の「君津町」を名付けた理由

 1943年(昭和18年)、周西(すさい)村と八重原(やえはら)村が合併し、この時に自治体の名称としては初めて、「君津町」が登場します。名称選定の理由を書いた公文書は残っていませんが、「君津郡の中央を占める(位置)」、「必ず君津郡の中核に発展する」の二説が伝えられています※1

旧町村名の名付け方

 その後、「昭和の大合併」によって、市域では5町村が誕生しました(1954・55年/昭和29・30年)。この時の町村名は、現在も地域の区分に使われています。名称には、河川名を採用した例や、公募で決めた例があります。また、実際よりも広い範囲の名を付けて、その中核をめざす気概も見られます。合併は名称選定で難航する例もあり、そこに地域のこだわりや誇りがうかがえます※2

 なお明治期の大合併では、内務大臣訓令で (1)大きな町村の名を選択すること、(2)優劣がない場合は折衷(せっちゅう)案を取ること、(3)歴史上著名な名称は残すこと、といった旨の指示があり、市域では(1)が2件あるものの、他は(1)(2)を避けて、(3)とそれを拡大解釈した名前が多く見られます※3

名称は 「君津木更津市」!

 1970年(昭和45年)6月、合併後の新市名に「君津木更津市」が提案されました。当時は木更津も含めた合併を協議していたのです。しかし庁舎の位置と市名が折り合わず、この協議会は解散しました※4

「君津町」、そして「君津市」へ。

 その後、現在の君津市の枠組みの君津町が誕生します。町名は次の理由で選定され※5、名前は市制施行後も引き継がれて「君津市」となるのです。

君津町の名称
合併関係五町村の位置は、従前の千葉県長期計画において「君津地域」と称され、今日、なお慣習としてそう呼ばれている地域の中心部にあたることをもって「君津町」と称することとした。

 ところで、明治に生まれた「君津郡」の名は、当初は「木更津郡」と提案されていました※6。そのまま決まっていれば、君津市も別の名だったかもしれません。

 

旧町村名の由来1 ※7
 

1954・55年➤1970年の町村名の由来 (昭和29・30年➤45年)

町章 町章デザインの理由
君津町 君津郡の中心地であり、 且(か)つ廃止した町村名の中に『君津町』という名称があったので、この町名をとることに関係町村の意見が一致した。 君津町のち君津市の市章 1963年(昭和38年)制定 「君津町の頭文字「キ」をおおらかに翼を張った鳥形にデザインしたもの。円形の翼は、町の「和」と「飛躍・発展」を意味しているものであります。」※8 なお町章は、市政施行後も引き継がれている。
小糸町 この地方は古くより『小糸の作(さく)』と称されて居り、然(しか)も小糸川の清流は中央部を緩かに流れて平和を表徴している。新町は当地方の中心地帯として愈々(いよいよ)発展すべくこの両面から小糸町とすることに意見が一致した。 小糸町 町章 小糸町町章 1965年(昭和40年)制定 「図画上部の小の字に山(鹿野山)を又糸の字に鬼泪(きなだ)山、法木(ほうぎ)山の杉が象徴されている。」※9
清和村 町村制施行以来七十年の歴史を有し住民が撫育(ぶいく)愛唱して来たつた『秋元(あきもと)』『三島(みしま)』 の名称を廃することは、誠に愛借に堪(た)えぬ所であるが町村合併と云う自治行政の一大転換期に際会し、村は住民全体のものであつてその名称も狭い視野によつて決すべきでないと云う観点のもとに、住民全般より公募することゝし、応募総数四五〇の中より選定したのである。悠久(ゆうきゅう)にして尽きざる小糸川の清き水源の地、山岳重畳(ちょうじょう)して優容(ゆうよう)迫らざる天地清明、人心は清浄にして人情温和なる気風を表現したる『清和』を取り、両村が将来清々しく和合し健かに成長発展して行く意味において、清和村とすることに意見が一致した。    
上総町 旧幕(きゅうばく)時代より上総の国に属した三ヶ町村であり、特に合体合併の主旨から旧町村名を避けることとなり、上総の国の主要農村都市として発足するために『上総町』とするに意見が一致した。 上総町 町章 上総町町章 1954年(昭和29年)制定 「清澄(きよすみ)山に清流小櫃川が発し円満行政のもと町民の和合及び発展する意欲を象徴し上総の上を図案化する。」※10
小櫃村

小櫃川村ノ中央ヲ貫流(かんりゅう)スルニ依リ本名ヲ附ス※3

※小櫃村は同時期に合併しなかったため、明治期の選定理由を紹介。

   

※町章は3つの町で制定された

 

旧町村名の由来2 ※3

町村名

1889(明治22年)➤昭和前期の町村名の由来

小櫃村

(此村々ハ多少優劣ナキニアラスト雖トモ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セス、又之ヲ参互折衷センモ十四ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス)、小櫃川村ノ中央ヲ貫流スルニ寄リ本名ヲ附ス

久留里村

此町村中、久留里ハ久留里藩邸所在ノ地ニシテ、著名ナルヲ以て本名ヲ附ス

松丘村

(※此村々ハ… 十ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)村内中央ノ高岡ニ三株ノ老松アリ。伝ヘ曰ク弘文天皇ノ親栽スル所ナリト、依テ本名ヲ附ス

亀山村

(※此村々ハ… 十三ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ往古亀山郷タリシヲ以テ本名ヲ附ス

八重原村

(※此村々ハ… 七ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ村民ノ希望スル所本名ヲ附ス

周西村

(※此村々ハ… 六ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ村名ハ周西郷タリシタメニ本名ヲ附ス

中村

 (※此村々ハ… 九ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)此村々ハ本郡ノ中部ニ在スルヲ以テ本名ヲ附ス ※後に「往古周東之荘ト唱候旧記モ有之候ニ付、右ニ依リ周東村と称呼致度」と上申するも認められず

小糸村

(※此村々ハ… 十二ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ此村々ハ小糸川ヲ挟ミ聚落セルニ依リ本名ヲ附ス

秋元村

(※此村々ハ… 十一ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ此村々ハ往昔秋元荘ニ隷シ、且市場村ニ秋元ノ城趾アリ、著名ナルヲ以テ本名ヲ附ス

三島村

(※此村々ハ… 十ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ此村々ノ氏神ハ三嶋神社ナルヲ以テ、今其社名ヲ取リ本名ヲ附ス

周南村

(※此村々ハ… 十二ケ村ノ多キ撰択ニ便ナラス、)依テ此村々ハ本郡ノ南部ニ位スルヲ以テ本名ヲ附ス

貞元村

此村々中貞元村ハ最大村ニシテ且貞元親王ノ陵墓アリ、著名ナルニ依リ本名ヲ附ス

明治二二年『千葉県町村分合資料』千葉県立中央図書館蔵」より作成。同史料の掲載順に記載。

かっこ内の文章(※此村々ハ… )は、最初に記載した小櫃村の文面と同内容のため、省略表記した。

 

注釈

※1 『君津町誌』1962には「君津郡の中央を占める町」とあり、「杢師土地区画整理組合記念誌 むくし」1991及び「ひらけゆく里箕輪土地区画整理事業のあゆみ」1991では「中核」「中心地」への発展と伝えている。

※2 『通史』1020ページ 『史料集5』11ページ

※3 「千葉県町村分合資料」1889 千葉県立中央図書館蔵 ※『史料集3』71ページに望陀郡・周准郡の抄録、『君津いまむかし』1998君津市市史編さん委員会編19ページ

※4 『史料集5』51ページ

※5 「町村の配置分合について(申請)」1970 『史料集5』55ページ

※6 明治23年12月20日、帝国議会の提出議案「郡分合ニ関スル法案」に記載。「名称は三郡内ニ於テ木更津ノ地名古来著名ナルヲ持テ之ヲ採ル」とある。法案は否決された。「君津」への変更理由は不明。「各府県郡分合ニ関スル法案ハ衆議院ニ於テ否決ス」簿冊「公文類聚・第十五編・明治二十四年・第二巻・政綱一・帝国議会・地方自治一」※国立公文書館デジタルアーカイブス<外部リンク>68コマ(高木澄子氏情報提供)

※7 『史料集5』君津町25ページ、小糸町35ページ、清和村37ページ、上総町30ページ

※8 「君津広報」第41号 1963 『史料集5』376ページ 鈴木日出夫氏(大佐和町)の図案

※9 「町政あんない」1966 小糸町編 180点の公募から増田重喜氏の図案を選定。審査員は画家の緒志勝治氏・村松正一教諭・山田邦枝教諭。

※10 「昭和31年上総町町勢要覧」『史料集5』231ページ 久留里市場出身の杉浦福三氏の図案。杉浦氏は茂原市の市章、伊那市の旧市章も手がけた。

※注釈の出典で省略表記している図書の詳細は次の通り 『通史』(『君津市史通史』2001)、『史料集3』(『君津市史史料集3』1993)、『史料集5』(『君津市史史料集5』1993)