広重(ひろしげ)がえがいた鹿野山(かのうざん)
歌川広重(うたがわひろしげ)は、1797年に江戸(えど/今の東京)に生まれています。風景(ふうけい)をテーマにした版画(はんが)がとくいで、「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」などのシリーズは、日本だけでなく、ヨーロッパでも人気になりました。
その広重ですが、君津市の鹿野山(かのうざん)に、2回来たことがわかっていて、鹿野山をテーマにした4まいの作品を作っています。広重が鹿野山をえがいたのはなぜでしょうか?作品の中にヒントをさがしてみましょう。
写真(しゃしん)の作品は、1858年に作られたものです。鹿野山の烏居崎(とりいざき)という所から見た風景で、今の東京湾(わん)がみえています。むこうぎしには美しい富士山があり、箱根(はこね)の山々もせまってくるようです。大きな鳥居や、のどかに道を行く人々も、えがかれています。このころ広重は、富士山の見える風景をテーマにした版画をつくっていたので、こうした美しい風景がみえる場所(ばしょ)として、鹿野山もえらばれたのでしょう。
ほかにも、江戸からの距離(きょり)や乗り物(のりもの)も関係(かんけい)していると思われます。広重の時代(じだい)には、まだ電車も車もありません。どうやって鹿野山まできたのでしょうか? 絵を見てください。二つの乗り物がえがかれていますが、広重がつかったのは馬ではなく、もう一つの乗り物です。海の中に、小さいですが船の「ほ」が見えるでしょう。じつはこのころ、物や人をたくさん、早くはこぶ乗り物は、船だったのです。広重も船で東京湾をわたって木更津(きさらづ)について、そこからは歩いて鹿野山にむかいました。
そして鹿野山は、鳥居崎のながめがよいだけでなく、その近くの九十九谷(くじゅうくたに)からのながめもよく、めずらしい「はしご獅子舞(ししまい)」が行われていましたし、神野寺(じんやじ)というお寺におまいりすることもできました。 この時代(じだい)には、自由に旅行はできませんでしたが、お寺や神社へのおまいりはゆるされていて、そのとちゅうで観光(かんこう)することができました。鹿野山は江戸から船でやってきて、おまいりをし、観光するのに、ちょうどよい人気の場所だったのです。そのことも、広重が鹿野山をえがいた理由(りゆう)の一つでしょう。
さて、絵にある鳥居崎ですが、神野寺とマザー牧場のあいだの山みちにあります。今は鹿野山の歴史をほった石がたっているだけで、鳥居はありません。木がしげって景色もほとんどみえませんが、鹿野山には他にも、富士山と東京湾がきれいにみえる場所があります。鹿野山へ行ったら、こうした風景や、広重の作品をたよりに、昔のようすを、思いうかべてみてください。
文化遺産オンライン<外部リンク>というホームページで、この絵のくわしい画像(がぞう)を見ることができます。この絵以外の広重の作品も見られます。
文 :久留里城址資料館(くるりじょうししりょうかん)
写真:「冨士三十六景 上総鹿楚山(ふじさんじゅうろっけい かずさかのうざん)」
絵は木更津市郷土博物館金のすず(きさらづしきょうどはくぶつかんきんのすず)にあります
※絵の題名(だいめい)に書かれた、「冨士(ふじ)」の文字は、今ではふつう「富士」と「うかんむり」で書かれますが、昔は「わかんむり」を使うことがありました。また、鹿野山は「鹿埜山」と書くこともありますが、広重はまちがえたのか「楚(そ)」の字を使っています。