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戦前の日本ピアノ製造の黎明期、「松本ピアノ」は「山葉」「西川」とともに「日本3大ピアノメーカー」として名を馳せました。
その柔らかく甘い音色から「スウィート・トーン」と称されています。
創業者の松本新吉は、1865年(慶応元年)、上総国周淮郡常代村(現在の君津市常代)で生まれました。
自費で渡米し、数々の苦難に立ち向かいながらも、東京の築地、月島、そして君津の八重原工場で、ピアノ製造に生涯を捧げました。
新吉のピアノ作りに対する情熱と信念は、二代目新治、三代目新一まで引き継がれました。
松本ピアノのスウィート・トーンを下の動画から聴くことができます。
ダイジェスト版『松本ピアノ サロンコンサート』令和6年10月30日(水曜日)開催
アメリカで修業した新吉の作る松本ピアノは、当時、「見栄えの山葉、音色の松本」と評されていました。
他のピアノメーカーとは異なり、ピアノの響きを決める響板に国産のエゾマツを使用するなど、独特の音響美を追求しました。
晩年に故郷君津に帰って、八重原にピアノ製造工場を設立してからは、地元の若者を多く採用し、ピアノ作りの初歩から教えました。
大量生産方式で効率を重視するメーカーが多かった中、松本ピアノは職人一人ひとりがピアノ製造に係る全工程を担当するなど、 スウィート・トーンの音色を重視して手作業にこだわっていました。
松本新吉は、横浜の西川風琴(オルガン)製造所で働き、1893年(明治26年)28歳の時に調律師として独立し、紙巧琴・オルガンの製造販売を開始しました。
しかし、試作したピアノに満足できず、ピアノ製造技術を習得するため、1900年(明治33年)35歳の時に渡米しました。
半年ほどのアメリカ滞在中、ニューヨークのブラドベリーピアノ社ではピアノ製造の工程を一から学びました。
これまで訪米した日本人が誰も現場を見せてもらえなかった響板の製作方法など、本場のピアノ製造技術を習得しました。
帰国後、完成したピアノを第5回内国勧業博覧会に出品し、国内最高位を受賞しました。
その後も生涯にわたって、ピアノ製造にかけた情熱とその信念が、製品の品質と企業文化に色濃く反映され、二代目の新治、三代目の新一の代まで継承されました。
他のピアノメーカーが大量生産方式をとる中、手作業方式によるピアノ製造を続けていた松本ピアノは時代の波に抗えず、2007年3月、松本ピアノ八重原工場を閉鎖し、約110年続いた歴史に幕を下ろしました。
工場の閉鎖に伴い、三代目の新一氏から計18台のピアノとオルガンが市に寄贈されました。
その後修復された松本ピアノは、君津市民文化ホールの大ホール奈落に保管されています。
松本ピアノ・オルガン保存会は、八重原工場の閉鎖に伴い発足し、松本ピアノ・オルガンに関する情報収集や、松本ピアノの補修・保存・活用に取り組んでいます。
松本ピアノや松本新吉のピアノ製造に関する詳しい歴史については、松本ピアノ・オルガン保存会の公式ホームページをご覧ください。
松本ピアノ・オルガン保存会公式ホームページ<外部リンク>