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「小櫃学 里見氏ゆかりの小櫃の古城めぐり」を開催しました

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年3月16日更新

小櫃学 里見氏ゆかりの小櫃の古城めぐり

 台風による倒木などの被害を受けて実施を見合わせていた小櫃学ですが、地元の方のご尽力により観察予定場所の環境整備が行われ、再会の目処が立ったため、令和2年2月9日(土曜日)に実施することができました。
 小櫃学は、地域資源(人・もの・文化・自然・歴史)などを活用した学習を通じて、地域内外の方に小櫃地区の魅力を届けることを目的に実施しています。これまで、3世紀中頃から7世紀頃にかけて築造された古墳に関する学習会、8世紀頃の古代史最大の内乱壬申の乱に破れた大友皇子が上総地方に落去してきたとされる伝説に関する学習会を開催しました。3年目となる今回は、12世紀から15世紀にかけての中世の小櫃に関する学習会を実施しました。

【講演】 中世戦国と小櫃・時代に翻弄された小櫃

講師:小高 春雄(大多喜町教育委員会生涯学習課学芸員、君津市文化財審議会委員)

 講演では、寺社に残された銘文や各地の記録など、小高先生が各地を巡って調査された貴重な資料の情報を元に中世戦国と小櫃に迫りました。

講師の小高先生講演の様子

中世の小櫃地区は畔蒜庄(あひるのしょう・あびるのしょう)と呼ばれていた

 中世の小櫃地区は、上総国の中にあり、馬来田、小櫃、久留里、松丘、亀山周辺を指して、畔蒜庄と呼ばれていました。「小櫃」という地名は、白山神社に由来のあるものではないかと考えられており、白山神社のある場所(現、俵田地区)を中心としてあったのではないかと推測できます。
 畔蒜庄という名称は、室町幕府第3代将軍足利義満が治めた時代の御教書(みぎょうしょ)である「佐々木文書」(1394年)に「上総国畔蒜庄」と記載されています。畔蒜庄は、近江源氏出身で近江の支配を二分した一族である京極氏や六角氏の代官であった佐々木氏が支配していたと思われます。
 佐々木文書には、畔蒜庄を治めた人物「佐々木吉童子丸」の名が記されていますが、名前の最後に「丸」と付くのは幼名であることから、実際にはこの地の土着の有力者が支配していたのではないかと推測できます。

小櫃地区には小櫃氏がいた

 この小櫃地区にはかつて、地域の有力者として「小櫃氏」がいました。現在確認されている資料ではじめて「小櫃氏」が登場するのは、1404年です。「小櫃遠江入道常吉嫡子前越前守親秀」と記載されています。この人物は藤原一族系であり、何らかの権利を有していた土着の人ではないかと考えられます。
 小櫃氏が禅秀の乱に巻き込まれたことが、鴇矢日輪寺(長柄町)の仏具に記されており、この記録から小櫃氏の辿った歴史をなぞることができます。

上杉禅秀(氏憲)の乱と上総地方の諸侯

 小櫃氏がこの地域の有力者として活躍していた室町時代、関東を統治するための鎌倉府の長である鎌倉公方の足利持氏に対し、鎌倉公方を補佐する関東官領であった上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こした「上杉禅秀の乱(1416から1417年)」がありました。その経緯は『鎌倉大草子』に記載されているとおり、鎌倉公方である足利持氏側が勝利することとなりましたが、この戦の余波が上総国にも大きな影響を及ぼすこととなりました。

 当時の上総国は上杉氏側が守護として統治していましたが、上杉禅秀の乱の後には勝利した足利持氏側で上総国を統治することになりました。
 しかし、これに対し上総国の一部の有力者は反発し、「上総本一揆(1417年)」を起こし、市原市平蔵城で戦がありました。
 上総地方の諸侯は、禅秀派、公方派に分かれ、禅秀派には、「小櫃、大武、秋元、神崎」といった名が記録に残っており、公方派には、「小滝(現在の大多喜)」の名が記されています。
 戦に破れた禅秀派の諸侯は、上総地方を離れ、関係者を辿って各地に住むようになったようです。現在、小櫃の氏を名乗る人は、埼玉県秩父方面、越谷方面、神奈川県横須賀方面で確認できます。

真里谷武田氏の台頭と湯名城の山本氏

 小櫃氏が小櫃の地を離れた後も戦乱は続き、15世紀末には武田氏が上総国を統治することとなりました。広い上総国の東には丁南城、西には真里谷城を築かれ、西側の武田氏は真里谷武田氏と呼ばれました。『武田真里谷家家譜』(1494年)によると、真里谷武田氏は久留里城を築き、現在の馬来田、小櫃、久留里、松丘、亀山まで広く統治していたとされています。
 武田信興(のぶきよ)が当主だった頃、千畳敷に隣接する真里谷城跡から外国の調度品である中国産の陶磁器が大量に出土しており、高位の人をもてなしていたのではないかと想像できることから、信興の時代は、地位、権力も高く、支配力があったことが推測できます。 

 小櫃と馬来田の境にある湯名城は、武田の城であり、遺構から推測すると16世紀頃に築城されたものと思われます。豊臣秀吉が小田原征伐の事前に関東の城を調べるのに作らせた「関東八州城之覚」(毛利文書)に、「久留里の城 山本越前守」と記されています。山本氏は、久留里城が武田氏から里見氏のものになった後も城代として、この地に残っていたことが推測できます。湯名城は、昭和20年代の航空写真を見ると城郭を確認することができますが、現在は木が生い茂り、はっきりとした形を確認することはできません。

湯名城
湯名城跡図【出典:『君津の城』(小高春雄著、2010年)】

真里谷武田氏から里見氏の時代へ

 真里谷武田氏も内紛等で権力を維持することが叶わず、真里谷武田氏と入れ替わるようにこの地域の実権を握ったのが里見氏です。
 そもそも里見一族の出自は安房国です。現在の南房総市宮本城付近に里見氏の郷がありました。同市三芳地区の延命寺に歴代の里見氏の墓があります。ちなみに、小櫃地区の瑞龍院(三田地区)にも里見義弘のはかとして伝えられているものがありますが、現存するものを確認すると里見義弘の治めた時代よりもずっと後に作られたもののようです。
 里見義堯が里見家の実権を握った後、拠点を安房から佐貫に移しましたが、東京湾を挟んだ対岸には北条氏が支配する相模があったため城を維持することができずに、久留里へ拠点を移したようです。久留里城は天文時代から永禄時代にかけて里見氏が大改修をしたことが、久留里城の埋蔵品から推測できます。

 中世の小櫃地区は、小櫃氏からはじまり、真里谷武田氏、里見氏と領主が次々と代わり、時代に翻弄された地域でした。

【現地観察】里見氏ゆかりの小櫃の古城めぐり

 昼食をはさみ、午後からは里見氏ゆかりの城である戸崎城の観察をしました。

戸崎城へ向かう道中小櫃の眺望神社境内での説明の様子

戸崎城跡の観察戸崎城の観察2戸崎城観察の様子3

 戸崎城は、城山(じょうざん)地区の大地端に所在し、東から北に流れる小櫃川が山肌を洗う要害の地です。標高は約50mで東西の山麗水田との標高差は約20m程です。城内には複数の古墳、塚等が現存していることから、これらを遺したままの地形をいかし、また工夫された城の構成であることから、天正時代に築城されたものではないかと推測できます。
 いわゆる館があったのではなく、陣小屋のような簡易な施設があったのではないかと思われます。

戸崎城跡図

 戸崎城跡図【出典:『君津の城』(小高春雄著、2010年)】

 戸崎城は、戸崎地区と岩出地区の境にあります。法木山から戸崎に下りてきたT字路の奥に位置しています。
 城の造りは、前方へ伸びる土塁は10m程の高さがあり湾曲し奥深くなっており、右手に伸びる土塁は角々が小山となっています。これは、敵の攻撃を懐深く誘い込み、弓矢等で射抜いて撃退するという狙いで築城されています。また、地図左上部の裏口が狭い虎口、入り口となっており、左西側から南側へと途上の道が続いています。
 久留里城との位置関係から出城として築城されたと推測できますが、戸崎城が作られた当時は戦国時代の終焉であり、この城が実際に戦で使われたことはないかと思います。
 当時の様子を伝えるこのような遺構の城が保存状態良く残っているということは、大変貴重なことです。

参加された方の声をご紹介します

  • はじめての参加でしたが楽しく一日を過ごすことができました。地名となっている歴史上の方々の話を興味深くお聞きすることができ、有意義な時間でした。
  • 中世の話を聞き思いを馳せることができ良かったです。さらに小櫃の勉強をしたいと思います。
  • 1400年から1500年代の小櫃、久留里、真里谷の歴史のつながりを学べてしかも自分の足で戸崎城跡を歩き、地形や城の様子を小高先生に教えていただき、タイムスリップしたような面白みを感じました。
  • 地元にいながらこういうところがあるということを再認識し、今日は大変勉強になりました。